「異言語同士、例えばdogと犬に正確な一対一対応が出来るかなんて怪しい、言語はその背景、言語の使用者の文化に依存するのだ云々」みたいな文章を中学だか高校だかで読んだ覚えがある。
「雨」に関する表現を挙げれば枚挙にいとまがない日本語と、rainで済ませてしまう英語云々みたいな愚にもつかない話も有ったような、なかったような。
純粋無垢、天使のような心を持った私にとっては、そんなありふれた話でも何か感じるものがあったのだろう。
学校帰りの電車の中でずっと言語の対称性について考えていた。
「異なる文化背景を背負ってるから対称性がないのは本当に外国語のみか?例えば今電車の正面に座ってるおじさん、私と彼とでは全く異なった文化背景を背負っている。私と彼との間で『日本語』が同一の意味を持っているなんて誰が保証したんだ?あやしいぞ」
プリティでキュアな私は、その悩みを解決するため、早速おじさんに大声で「こんにちは!貴方と私とで日本語の意味って違うと思います?」と話しかける……わけではなく、じっと彼の顔を見つめていた。睨み返された。
全く関係のない話だが私は犬が苦手だ。大きかろうが小さかろうが何故か怯えてしまう。人懐っこい顔は好きなのだが。
私が「犬」と書くとき私の頭の中では「小学生の時に友達の家で飼われていた、猛烈に人懐っこいのか警戒心が薄いのか知らないが、友達の家に遊びに行くたびに近くにやってきて私を恐怖の渦に陥れた『あの』小さなダックスフンド」が飛び回っている。
あなたの頭の中では何が飛び回っているのだろうか。別れた彼女が飼っているゴールデンレトリーバーか?車に轢き殺された野良犬か?ゴヤの砂に埋もれた犬か?
「a dog」で犬を漠然と指した気になってはいないか。犬がその手に持った小さなナイフで刺されるぞ。
言語というミキサーで砕かれた世界を我々は知らず知らずの内に嚥下する。
私のミキサーとあなたのミキサーに違いはあるのか?。ミキサーの違いが世界の違いなのか?目の前に出されたドロドロの世界に嫌悪感を覚えるとき、私は世界を飲めなくなる。
本当に意思疎通は正しくおこなわれているのか?私が「今日のお日柄」について語る言葉を、目の前の女性が何かの拍子で「愛の告白」と受け取ってくれはしないだろうか。
今日も月は綺麗だ。