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imterlawの日記

郊外にぽつんと立った豪華な屋敷

ドラクエ7、「ひとは、誰かになれる」【ネタバレしまくり】

昨年クリアしたゲームのなかで最も面白かったのは、と聞かれたら

即答でウィッチャー3  と答えるが、じゃあ二番目に面白かったものはと聞かれたら

それもドラクエ7だと即答する。

 

ドラクエ7は非常に面白いゲームだった。3DSのリメイクをやったが今までやったドラクエの中でもダントツで一番だ。

世界に一つしかない島、グランエスタード島の漁師の息子として育った主人公は、網元の娘マリベル、王子キーファの悪友三人組といつも遊んでいる。彼らが島の人々が近づかない神殿を探索したりする中で発見した石版、その石版を台座にはめ込むとそこは見知らぬ場所で、グランエスタード島にはいないはずのモンスターが・・・・・・

 

ドラクエ7基本中の基本として、最初の戦いまでが異常に長い。これでも原作と比べて短くなったというから驚きだ。主人公が住むグランエスタード島にはモンスターがいないのだ。石版をはめて初めて訪れるウッドパルナで初めて戦闘になる。最初の島、ウッドパルナからしてこのゲームはひと味違う。

謎の場所に飛ばされ右も左もわからぬ主人公を助けてくれる女戦士マチルダ、彼女はどうやらお墓参りに来ているようで、お墓に粗末な草を捧げている。マリベルが理由を聞くとどうやらこの島は呪われて花が咲かないらしい。そこでマリベルグランエスタードから持ってきた花の種を渡してやる。

彼女に従って唯一の町ウッドパルナを訪れると、そこは荒れ果てた街だった。なぜか街に入ると消えるマチルダさんを訝しみながら、村の戦士ハンクの話を聞くと(その前にハンクの傷を治すイベントがあるが)、どうやらこの街はどうやらモンスターに支配されて村の女たちはすべて連れ去られたようだ。

主人公たちはハンクを助け、島を支配する魔物を討伐すべく、東にある塔に向かう。

塔の頂上で姿を見せたのはなんと異形と化したマチルダだった。マチルダは英雄パルナの妹。パルナはかつて村に魔物が襲った際、後から村人が助けるという手はずで一人魔物の元に攻め込むものの命を惜しんだ村人は誰も助けに行かず、命を落としたようだ。その後マチルダもパルナを追って魔物のところに向かい、そこで魔物に捕まって魔物たちの同胞へと姿を変えられたらしい。自分たちを助けてくれたマチルダを殺せない主人公、しかしこの島にかけられた呪い、村の女たちを救出するための鍵はマチルダ自身の命だった。戦闘になっても主人公たちに攻撃を仕掛けてこないマチルダに攻撃を渋っていると、ハンクが街のため、自ら汚れ役を買ってマチルダにとどめを刺す。

島から呪いが解け、空が晴れるものの心は晴れず後味の悪い幕切れ。マチルダの遺言に従い最初にスライムと戦闘した場所に戻るとそこにはグランエスタードへと戻る旅の扉が、そしてその近くにある最初にマチルダが墓参りをしていたお墓にはマリベルが渡した花の種が咲き、満開の花が咲いていたーーーー。

グランエスタードに戻ると「突然島が浮かび上がってきた」と大騒ぎに。主人公たちもぼろ船でその島に向かうと先ほどまでいたウッドパルナにそっくりな島があるではないか。島を探検する中でどうやら先ほどまでいたウッドパルナは過去のウッドパルナ、そして今浮かび上がった島は現代のウッドパルナのようだ。こうして主人公たちは石版を集め過去と現代を行き来する冒険の旅に突入する。

 

最初の島から人が死ぬ。ドラクエ7を象徴するスタートだろう。このゲーム、いつものドラクエのように魔物vs人の対立軸かと思いきや人間の汚さ、弱さのようなものを正面から描いてくる。昼ドラアイランド、グリンフレークが最も象徴的だろうか。胸糞イベントとして名高い(私は大好きだが)レブレサックもそうだ。過去と現代を行き来し、いろいろな島を訪れる中で主人公たちはいろいろな人と出会う。優しい人、汚い人、気高い人、卑屈な人。全く毛色の異なる島々を冒険するこのシステムは非常に面白い。過去と現代の二つの冒険で「あの島はあの後どうなったのだろうか」というRPGで村を救ったときによくある疑問に答えを出しているのもうれしい。タイムワープものに外れなしというが、その通りだ。時間を飛んで面白くならないわけがない。

 

私がドラクエ7を好きな理由として「語りすぎない」ことがある。最初の島ウッドパルナもそうだ。グランエスタードに戻るときにパルナの墓に花が咲いていることが描かれるもののイベントは挿入されない。ここでキーファが何か語り出したら興ざめだろう。

主人公が実はマールデドラゴーンの船長、シャークアイの息子であるということもにおわせるだけで明言せず、ハーメリアを救うトゥーラ弾きの老楽師がかつてユバールの村で出会ったジャンであることも仄めかすのみである。

ドラクエ7はとにかく仄めかしが巧い。レブレサックの神父が以前訪れたプロビナで出会い、主人公たちの代わりに死んだ神父だということも語らない。プレイヤーが「そうだったのか」と画面の向こうで納得するのみである。巧い、タイムリープものの引き際を心得ている。過去と現代を行き来する中で知ったすべての知識をぺらぺら語り出したらそれこそ物語が破綻していくといえばその通りだが、このゲームは語らない。

 

 

エンディングも素晴らしい。真の悪オルゴデミーラを倒した後、結局漁師の息子として生きていくことを選んだ主人公は、一人前の漁師と認められて初めて父の漁に連れて行ってもらう。その船にはマリベルも忍び込んでいて〜、というオープニングのイベントを踏襲したこの演出がまず憎い。その漁で網に引っかかっていたのは見慣れぬ石版で、そこにはかつてユバールの地を守るため(ライラに惚れただけともいうが)過去に残ったキーファからのメッセージが彫られていた。ドラクエ7はキーファから始まり、キーファに終わる、石版から始まった冒険が、最後石版によって幕を閉じるこの終わり方は非常にきれいだ。確かにキーファの離脱は痛かった。突然女に惚れて離脱して、結局ジャンからライラを奪う形になるし、キーファがユバールで消えるせいで次のダーマの難易度が上がるといいことなしだ。でもこのご都合エンディングのためなら、キーファの離脱も許そう。このエンディングのためにはキーファが途中で帰ってきてはいけない。キーファはエンディングの犠牲になったのだ。3人の悪友から始まる物語がちゃんと最後3人で完結する、素晴らしい。このシーンには残念ながらガボもアイラもメルビンも似合わない。わかってる、わかってる開発者だ。

 

「ひとは、誰かになれる」、PS版ドラクエの7のキャッチコピーだ(youtubeでCMが見れる)。このキャッチコピーも好きだ。なぜ私はゲームをやるのか、それは自分じゃない「誰か」になるためだ。ゲームの中、主人公の生き方にもこのキャッチコピーが生きる。いろいろな島を冒険する中で、いろいろな人「だれか」と出会い、グレーズ姫に惚れられたり、世界を救ったり、主人公はある意味で自分自身「平凡な漁師の息子」じゃない「誰か」になる。しかし、最後で主人公は再び「漁師の息子」として生きていく。よくある「幸せの青い鳥」系ストーリーと纏めてしまえばその通りだが、「誰か」になった自分自身が最後に戻ってくるのが最初の自分だという終わりもいい。でも最初の主人公と全く同じじゃない。主人公は旅の中で確かに成長し、「一人前だ」と父に認められるまでになった(マリベルにも認められる)。

「ひとは、誰かになれる。」「でもわたしはわたしなんだ」ドラクエ7はそう言っている気がしてならない。