【 映画大好きポンポさん感想】「劇中劇」になってしまったメタ構造といかにして向き合うか ~「誰のためのアリア」
「映画大好きポンポさん」、の映画を見てきた。
pixivの有名漫画の映画化ということでかなり楽しみにしてたが見てよかった映画だった。
ポンポさんの原作がめちゃくちゃ好きで、今回の映画も楽しみにしていたが
映画として素晴らしい作品だったと思う。
映画を描く映画の自己言及性を持つ、原作付き映画という極めてややこしいメタ要素を出来る限り丁寧に汲み取り、原作にない、それでもあってしかるべき自然なメッセージを成立させてる素晴らしい作品だ。
(有名過ぎて多くの人が見てると思うが、一応原作も貼っておく
そもそもこの原作自体の完成度が素晴らしくてどう映画化しても面白い、というのはある)
以下ネタバレです
「映画を撮る映画」メタ要素に対して徹底して自覚的である
この作品の映画化にあたっての面白いところとしては、元々映画を取るという営みを漫画にした原作を「映画化」することで
「映画を取る映画」、という構成上のメタ要素が否応なしに入ってしまうことだ。
映画を取るという営みがどういうものか、ということを作品上のキャラが語ることで、
その語りは必然的に「映画大好きポンポさん」という映画を縛る。
最もわかりやすいのが、原作のオチにもなっているシーンだろう。
ニャカデミー賞をとったジーンが、「この映画の一番気に入ってるところは」とインタビュアーに聞かれ、「上映時間が90分ってところですかね」と答えるということなのだが、
これをオチにする以上、この「映画大好きポンポさん」は上映時間を90分にせざるを得ない。どんだけ作品を長くしたくても、また短くしたくても作品がそれを許さない。
この90分に収める苦労、というものが映画大好きポンポさん製作上の苦労だったことは
監督の初日挨拶でも語られるし、パンフレットに乗ってるインタビューでも語られている。
さらに面白いのが、原作よりも強く、
「編集する営み」の苦労を映画内で自己言及的に語ることだろう。
劇中で編集を行うという営みを描かれるのは2回、
1回目はmarineの予告映像を作成するシーン
もう一つがmeisterの映画を撮り終えた後に編集する最後のシーン
だ。
まずシンプルな違いとしては、
編集のシーンにはアニメ的な演出をつけ、飛び交うフィルムに対してジーン監督が剣で切り付けてカットするという(かつ劇中歌を流し、映画製作の静的なシーンとは思えないほどの動きを生んでいる、)明らかに製作者の強い意識が投影されている。
もう一つが、大きな原作との乖離となる「meister」の映画編集における一連のオリジナルシーンだろう。オリジナルシーンの意図と狙いについては後述するとして
数十時間にわたる撮影のテープを1本の映画に凝縮する際の悩み、細かいカットシーンの切り取りの意図をmaisterの編集という営みを通じて見る側に語りかけてくる。
まさにこの営みは「映画大好きポンポさん」という映画を作る過程でも行われていることであり、監督のインタビューにおける
「仮のアフレコを終えた時点で100分くらい。シナリオから削っても92、3分だった。でも、どのシーンも落としたくない。1コマ、2コマ単位で削って、あと声優の皆さんに申し訳ないんですが、声から小さい『っ』や語尾だけ抜いたりして、なんとかにじり寄った感じです」
という語りと綺麗にシンクロする。
ポンポさんの語りがジーン監督を悩ませ、そしてそれを描く「映画大好きポンポさん」の制作陣を悩ませ、その悩んだ制作陣が描くのが「ジーン監督の悩み」である
という鶏が先か卵が先か、映画製作をめぐるメタ要素として原作にはないオリジナルな面白さを生んでいる。
映画を撮る、だけの映画にしない
上記で触れたメタ要素に強く自覚的でありながらも、「映画大好きポンポさん」の映画ではこの作品を「クリエイターたちの葛藤とそれの乗り越え」だけに終わらせないように強く意識している。
「映画を撮る映画」の自己言及性を意識して原作のストーリーをなぞるだけでも、元々の原作がめちゃくちゃ面白いのもあってきちんと映画として成立しただろうが、それにしたくない、というのが「映画大好きポンポさん」の製作陣たちの思いだと感じた。
特にこの要素として言及しておきたいのが以下の2点だ。
①原作から膨らませたmeisterという作品のテーマ、「誰のための作品なのか」という問い
②オリジナルキャラクターであるアランの存在
原作から膨らませたmaisterという作品、「誰のための作品なのか」という問いの新規生成
ナタリーに「ピン」と来たポンポさんの当て書きのシナリオ、という設定のmeisterは
原作においても最低限のあらすじの設定やスイスロケのシーン、などは語られているもののストーリーの部分については原作であまり語られていなかった。
この映画においては原作におけるその余白を利用し、設定の拡張を試みている。
マーティン演じる天才指揮者ダルベールが没落した理由を「大規模な演奏会におけるアリア演奏の失敗」ということにし、家庭内不和、感情を込めた「アリア」が苦手であるという設定
そこからナタリー演じるリリーとの邂逅により「アリアを再び演奏できるようになる」という流れに再編集し、「アリア」という劇中劇で登場するギミックを強く強調させる。
さらに、原作にない、meisterの最後編集時に切り捨てられず悩み、足りないシーンをなんとしても作るべく、再撮影を試みようとする一連の流れで劇中劇の主人公ダルベールと劇の主人公であるジーンをリンクさせる要素も見逃せない。
meisterという映画そのものに「誰のためのアリア」なのか、という問いを持たせることで、原作でも語られたコルベット監督がジーンに語る「誰のために映画を取るのか」という問いがここで自然に生きてくる。
原作においてはあまり語られることなく終わったこの会話を、ジーンの悩みと言う形で吸収することで、
・劇中劇における「誰のために演奏するのか」、という主人公(ダルベール)の悩み
・劇中における「誰のために映画を作るのか」、という主人公(ジーン)の悩み
・「『映画大好きポンポさん』を誰のための映画にするのか」という製作陣の悩み
という多重のメタ構造を成立させ、原作には存在しなかった「誰のために映画を作るのか」という問いを後半の後半においてうまく成立させる。
ここに対する製作陣の回答が、「アラン」という劇中オリジナルキャラを組み込むことだろう。
オリジナルキャラクターであるアランと「誰のためのアリア」に対する回答
最初に確認しておくと、アランというキャラは本作中においてそれほど重要な役割を果たしているキャラクターではない。それも当然で、元から完成されてた作品である「映画大好きポンポさん」の世界を絶対に壊さないよう細心の注意を払った上で、劇中に語られない余白に登場する「映画製作者ではない」キャラクターだからだ。
後半、meisterの編集に悩むジーンが、予定されてた試写会を遅らせてもどうしても足りないシーンを撮るためにポンポさんに直談判をするという展開。
試写会延期によるスポンサー不足に対し、追加の資金繰りを悩む中で出てくる、エリート銀行マンこそがアランだ。
ジーンのハイスクール時代の同級生であるアランは、なんでもそつなくこなせてきた中で、仕事がうまくいかず初めて挫折を味わってまさに仕事を辞めようととしているという状態で登場する。
とはいえ「好青年である」という要素をこれでもかと強調し、ジーンに嫉妬や何かするような人間的なマイナス面は登場しない。これは製作者の細心の注意の賜物だろう。
辞めることを上司に言おうとするさなかで、ジーンが追加撮影の資金繰りに困っているということを偶然気づき、そこからジーンを助けるために奮闘する、というのが大筋で
そのために奮闘することこそが、「彼自身のためのアリアなんだ」ということが
映画版「映画大好きポンポさん」の「誰のための映画なのか」に対する回答になっている。
劇中劇の最後、復活したダルベールが指揮するアリアを演奏する中で
ダルベール自身がアリアを演奏する中で自分自身がかつて子供だった頃に音楽を習った思い出を思い出すように、
ダルベールの妻がもう戻らないダルベールとの過去の生活を思い出すように、
ジーン自身が、彼の人生で切り取ったハイスクール時代を思い出すように
そしてポンポさんが祖父と映画を見た過去の原風景を思い出すように、
「映画大好きポンポさん」という映画は劇中劇のメタ構造を理解した上で、
映画に閉じない形で、我々視聴者に対してのアリアはなにか、という問いかけをしてくる。これをメインテーマに置いて完遂させた、描き切ったことこそが、
この「映画大好きポンポさん」の映画版一番素晴らしい点だと思う。
「夢を支えるために頑張る、その力となる」という要素を追加したのはオリジナルキャラクターであるアランのシーンのみならず、映画を撮影するシーンにおいて、カメラマンやスタッフなどの撮影を支える人々のシーンを付加的に描いてることからも一貫して読み取れるし、こういう細かい改変が結構お気に入りだ。
アランが融資を勝ち取るシーンの強すぎるフィクション性
ただこの映画の本筋で唯一気になってしまうのが、その融資を勝ち取るシーンがあまりにも非現実的であることだろう。そもそも子供にもかかわらず映画プロデューサーの立ち回りをやる大人としての姿を見せるポンポさんという存在が非現実的なものの、
「映画撮影における資金繰り」という現実的な問いを立てておきながら、そこに対する回答が論理性のないプレゼンテーションを役員に行い、偶然入ってきた頭取が気にいって解決、というのが流石に貧弱すぎる。感情ベースの盛り上がりでうまいこといく、というシーンがあっても別に良いとは思う、映画的だし。
クラウドファンディングという嫌に現実的だがありえない要素を組み込んだり、銀行の役員会議を世界中に公開するというコンプラ的に流石に強すぎる要素だったり、現実感が変なところであるのに、一方でぼやけてるチグハグさがどうしても見てて気になってしまった。
現実的な問いを立て、現実に悩む我々視聴者に届ける映画、として劇中劇のメタ構造を飛び越えるためには、ここが少し弱すぎるのではないかと思ってしまう。
他にも本筋とは関係ないが、ジーンが過労で倒れるシーンの必要性がどうしても解釈できないこと(編集という行為の重要さを強く強調させたかった、というならわかるが)や、劇中歌を流して盛り上げるシーンの回数が多すぎてシュールさが出てしまってるところ、などいくつかの気になるポイントがあるが、本筋の描き方に対する問題点はアランの解決手段のフィクイション性だけだと思う。
さいごに
これだけのテーマを抱えながら、「90分で終わらせなければならない」という強い制約に縛られた映画だ、というのが面白いし野心的だった。
「月並みで陳腐なテーマ」というのが劇中のmeisterに対するジーンからの評だが、
こうしてみると「映画大好きポンポさん」自身が「頑張る人讃歌」という月並みで陳腐なテーマを主題にしているところが面白い。
そしてそこを打破するのが、ジーンだったりポンポさんだったりというキャラの魅力だ、というのまでmeisterそっくりだ。
劇中劇に縛られた映画という綺麗なメタ構造を徹底して自覚的に描き切り、それを乗りこなす形で映画を完成させる、という脚本の綺麗さは、改めて整理して見ると極めて綺麗で面白いし、こういうのを描けると気持ちいいんだろうなぁと感心してしまった。
映画を見終えた後に視聴者自身が実感を持って「90分で終えるの素晴らしい」と感じ劇場から退場する、そこまで含めて綺麗にメタ要素が閉じているのは綺麗。
この実感こそが、「映画大好きポンポさん」が映画化した意義だろう。最後のジーンの語るオチを視聴者自身が実体験として感じとる、その中に普遍的なメッセージを流し込んだ映画大好きポンポさんの映画としての面白みが詰まっているとやはり思う。
ここでは脚本の妙にしか触れてないが、映画の絵作りも素晴らしいところが多かったと思う(ニャリウッドの色彩とかよかったように思えるんだが、私自身の解像度が低すぎて語ることができない)のが残念だ。