imterlawの日記

郊外にぽつんと立った豪華な屋敷

ゲームにおけるボスはなぜ私を不快にさせるのか その1

1.はじめに 

 

言うまでもない話だが、アクションゲームであれ、RPGであれゲームの要所要所にはボス(中ボス)がいて、最後には倒すべき関門としてのラスボスが用意されていることが多い。

wikipediaを見るとシューティングやアクションでは80年代初頭、さらにTRPGではそのRPG等性質上生まれた時から「ボス」と呼べるような存在がいたらしい。ゲームにおけるボスはゲーム初期から存在していると言っていいだろう。

 

最近思ったのだが、私はこのゲームにおけるボス戦が嫌いなことが多い。最近やったゲームだとBloodborneのボスは大嫌いだ。なぜか、強いからに決まっている。

「ボスは強くて当たり前だろう、何を言ってるんだマヌケ?」と思うかもしれない。待ってほしい、そのボスの強さは本当に妥当なのか?

 

 

2.ボスのレベルデザイン

ボスが強いのは当たり前だ。そもそもボスというキャラをゲーム開発者がなぜ用意するかを考えればわかる。

同じような単調なシステムだと飽きるからだ。

プレイヤーを飽きさせない、越えるべきハードルを適度に配置して、それを超えさせる。小さなハードル(小目標)をクリアしていく中で最終的なゲームのラスボス(最終目標)に到達するようなシステムデザイン、聞く限りでは美しい。私がここで言いたいのはそのハードルの高さは妥当なのか?そもそもハードルを立てることに成功してるのか?お前らが作ったのはハードルではなく落とし穴じゃあないか?

 

Bloodborneを例に出そう。このゲームで最初に戦うボスは聖職者の獣という巨大な化け物だ(ガスコイン神父から進む手もあるが割愛)。こいつがおかしい。

Bloodborneのジャンルはアクションで、銃と剣を用いたスタイリッシュなアクションで敵を倒していくタイプのゲームである。

聖職者の獣と戦う以前、マップ攻略の段階で戦う雑魚はそれほど強くはない。もちろん油断すると体力が溶けて死ぬが、結局隙をついて剣をぶんぶん振ってれば死ぬし、なんなら逃げて安全地帯で回復すればいい。

聖職者の獣はそんなゴリ押しが通用する敵じゃない。でかい図体のおかげでそもそも剣の攻撃でひるまず、敵の一撃は重い。ここで初めてプレイヤーは「回避」のテクニックを覚えることを強要される。回復を含めたゴリ押しが利かないからだ。いやいや待ってくれよ、今までゴリ押しさせてくれたのにここでそのゴリ押しプレイを咎められるのかよ。

戦闘を楽にする要素として銃を敵の頭にロックオンして数発打つことで敵が怯み、内臓攻撃という特殊な攻撃を入れれるようになるという設計になっているが、それもおかしい。雑魚敵相手にそのプレイングを今まで一度も要求してないだろうが。突然そんな要素を入れてきて対応できると思ってるのか?

誰もそんなこと教えてくれなかっただろうが。

 

Bloodborneのボスの嫌いな点は道中の探索に必要なテクニックとボス戦で要求してくるテクニックが乖離しすぎていることだ。このタイプのゲームを「ハードル高すぎボス」と名付けよう。特に最初のハードルが高すぎる。

Bloodborneは全体でそういうデザインになっている。ある程度ゴリ押しの通る雑魚敵を倒しながら探索する道中フェーズと、ヒットアンドアウェイの精度を上げた回避と攻撃の緩急をつける戦い方を求められるボス戦フェーズ。

この二つで必要なスキルのレベルがまるで違う。

そのためにプレイヤーはなんどもボスで死んで行動パターンを覚え、ボスごとに違う攻撃の隙を見つけ出しボスを突破することを求められる。

この落差が激しければ激しいほど、プレイヤーは突如現れるボスの強さに狼狽え、何度も死ぬことでどんどんイライラが高まってくる。bloodborneはよく「死にゲー」と言われるがそのカラクリがそこにある。ボスでしか要求されないテクニックをその場その場で身につけていくことが必要なのだ。

「ボスを強くする」ということが悪だとは決して言わない。最初から越えるべきハードルが高すぎるのだ。

初心者に要求してくるレベルが猛烈に高い。そのためBloodborneは逆に後半になればなるほどボスが楽になってくるような感覚を抱く。何度も死ぬことは変わらないが、要求してくるテクニックに対して自分の持ってるスキルが一定量溜まっているために攻略の糸口を掴みやすい。このゲームデザインが序盤にいらぬフラストレーションをプレイヤーに感じさせていると感じる。

 

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要求テクニックとその時点でのプレイヤーのテクニックのイメージ図

 

 

 

ボスは段階的に強くなっていくべきで、その段階はできるだけ滑らかであるべきだと感じる。もちろんボスの中でも因縁の強敵やプレイヤーの印象に残るような強敵が突然挟み込まれる、滑らかさを破壊するのも良いアクセントだろう。

だがそれを「最初に配置する」意味がどこにあるのか。Bloodborneとおなじフロムからでたダークソウル3でもそれはまったく同じだ。最初のボスであるグンダ戦うに当たって、最低限回避と盾受けをある程度扱えるようになっておかないといけない。その前の雑魚は剣を数回振るだけで死ぬのにもかかわらずだ、盾なんて使ったことなかったぞ。

このゲームの難しさはずるい難しさだ。九九の計算ドリルをやらされた後に突然因数分解をやらせて殺してくる。カラクリが分かれば簡単だ。できるようになるまで因数分解との戦闘をなんどもこなせばいい、試行回数の暴力でその場で適応するのだ。それでボスを突破した時の喜びは高い、ああそうだろうとも。

その強さは本当に必要だったのか?

 

こういうタイプのゲームに対する例として何が適切か思い浮かばないが、例えば星のカービィとかはどうだろうか。吸い込みと吐き出しという基本テクニックでボスが倒せるようになっており、それは道中の雑魚の戦闘の延長線上にある。夢の泉以降の作品ならコピー能力を持ち込んでもいい。ウィスピーウッズという敵は最初のボスとしてよくできている。ボスの体躯がまず大きくカービィの攻撃が外れることはない。敵の攻撃はりんごを落としてくる攻撃で、このりんごを回避するなり吸い込み吐き出しで当てるなりすれば良い。りんごをスライディングで回避したり、ジャンプしながら小さな敵の体に攻撃を当てる必要なんてどこにもない。そんなテクニックはのちに身につければいいのだ。

 

 

断っておくが私はBloodborneが大好きだ。死ぬほど文句言いながらも聖職者の獣を倒し、ガスコイン神父を倒し、先に進み、このゲームにのめり込んだ。だけど最初のハードルの高さは不必要に高いと感じる。そのハードルがゲームの楽しさを損なっているとも。

 

 

 

2につづく

 その2