imterlawの日記

郊外にぽつんと立った豪華な屋敷

【ドラクエ11 感想】ハッピーエンドと陳腐さ【ネタバレ】

 

2017/7/29に発売された「ドラゴンクエストⅪ 過ぎ去りし時を求めて(DQ11)」 をクリアした。

私はドラクエ7が一番好きなドラクエなのだがドラクエ11は7に次ぐ2番目に面白いドラクエだったと思う。休日の寝食以外のすべての時間を文字通りドラクエに当てるレベルでのめり込んだ。

いろいろ語りたいことがあるが、何を語ってもネタバレになるので、いきなり裏エンドの話からしたい。

 (ドラクエ11は最高のゲームなのでぜひ自分でプレイしてください。プレイする前にこの記事を読むとおそらく面白さが損なわれます)

 

 

 

 1.「陳腐」なストーリー

 

このゲームの裏エンドとそこに至るまでの話は徹底的に陳腐だ。表エンドであったイベントを軒並、「しょうもない」ハッピーエンドに修正している。

例としてあげると、カミュと妹の話が顕著だろう。

表ルートだと、首飾りの呪いで黄金となった妹は魔王の力で配下である魔物へと変身、主人公たちは黄金城でそれを迎え討ち、最後はカミュの献身で妹は元の姿を取り戻すこれはこれで王道でよくある話だが、悪くはなかった。

裏エンドでは魔王復活前に魔王を叩いているため、魔王の配下になることはなくただの黄金像のまま、さらには魔王に勇者の剣を破壊されていないため、勇者の剣の力で黄金を解除しハッピーエンド。

妹との和解に至るまでのプロセスはすべてなくなり、ただ勇者の力で妹を救って終わり、3秒で終わるイベント、余韻はない。

他にも表ルートだと世界崩壊後に共に人類最後の砦に対する魔物の大群の侵攻を食い止めることや、敵の拠点と化したデルガダール城への潜入といったイベントによって共闘し、はじめて「仲間」となるグレイグもよくわからないまま仲間になる。

 

だからと言って、この裏ルートは「表の話を台無しにするだけの駄作」ではない。結局この裏ルートへの突入は「死んだ仲間、ベロニカが生きている世界を実現する」というただその一点で時間遡行を行い、「過ぎ去りし時を求める」ものであったからだ。

ハッピーな結末も、結局「ベロニカが生きている」ご都合世界を実現するというモチベーションからして一貫した結果となっている、そこが一切ぶれていないから私はこの「陳腐なハッピーエンド」が大好きだ。

 

ドラクエにとってこの過去に飛ぶという展開はそれほど目新しいものではない。

5の妖精の城でゴールドオーブを回収するために過去のサンタローズ村に飛ぶシーンや、7の石板世界(過去)と現代の行き来もタイムリープだろう。

 

しかしこれらの作品は「過去のできごとは変えられない」という明確な前提の元に立っている。

サンタローズで必死にパパスを説得してもラインハット行きを取りやめることはないし、7のレブレサックを出る名もなき神父がプロビナに「死にに行く」姿を止めることができない。7で唯一ルーメンのシナリオで過去介入(に近いもの)を行えるが、基本的に「過去は変えられない」という前提は崩れることがない。

そういう意味においてドラクエ11は異質だ。明確に過去のイベントを改ざんし、歴史を歪めることを目的として主人公は過去に飛ぶ。

 

大樹の元で、ホメロスの死角からの襲撃を「事前に知っている」ことで回避、未来の世界で倒した魔王から奪った魔王の剣によってホメロスの発する闇のオーラを粉砕し、そのまま表のシナリオでの負けイベントに突入する。仲間たちが軒並みレベル20台の中で、未来からやってきた主人公一人がレベル40くらいで加入する姿は圧巻であり、ホメロスの身にまとう闇のオーラを魔王の剣の力で強引にこじ開け、負けイベントを全力で勝ちに行くという展開は個人的にかなりシビれるものがあった。

悪く言えばなろう的なご都合展開、よく言えばこのようなRPGをプレイする中でいつかやってみたいと思っていた「負けイベントを粉砕して、そのあとのストーリーを見る」ということが実現できたという意味で、私はこの過去に戻って負けイベントを勝つという展開はすごく面白く感じた、もう二度と見ることはできない展開だと思うが。

負けイベントで勝ちそのあとの魔王復活のイベントを回避することで、魔王が強化される前に弱い状態、魔王になる前の段階で悪の根源である魔王を叩いて平和を取り戻すという展開はハチャメチャだがそれを「王道」のRPGものであるドラクエでやったというのは驚いた。

しかし、このむちゃくちゃが許されるのは表のストーリーで丹念に積み重ねてきた過程があるからだ。「負けイベント」を回避できなかった表の世界において起きる世界崩壊後のイベントの一つ一つ、海底王国での勇者復活のイベントや、グレイグの加入もそうだし、その後の散り散りになった仲間たちとの再開、シルビアの父との和解、カミュの贖罪、ベロニカの死と妹セーニャの決意、そして因縁ある魔王との最終決戦 、ここまでのストーリーがあることをプレイヤーである「私」はすでに知っている、それを知った上で、エンディング後の「ご都合ハッピーエンド」を選びに行くというストーリー立てになっているからこそ、

陳腐なご都合ハッピーエンドももう一つの「あったかもしれない世界」として許容できるし、どれだけ「しょうもない」イベントだろうとすべて表の世界との対比によって

面白みが出る。ホムラの里のイベントもそうだろう。表では呪いにより人食い火龍となった息子に母親が食べられるというかなりキツい展開を迎えるものの(それでもドラクエらしく前に進む終わり方を迎えるが)、裏ではよくわからないダンジョンにおちてた宝箱から拾ったアイテムで事態が収束する。ここまで詰まらないイベントにしなくてもよかったのではないかというくらいしょうもない。 けれども、表の世界で起きる不幸を知ってるからこそ、ホムラの里を救えてよかったという充足感を感じるし、ハッピーエンドの詰まらないさに対してもマイナス点を感じることはない(感じるが)。

 

ただ一つだけ許せないという点が、ナギムナー村の結末の改変だ。ナギムナー村のイベントは世界改変前にあったイベントであるため、勇者の時間遡行によってナギムナー村のイベントが変わるということは展開上矛盾する。しかし、実際のところ、表のナギムナー村での人魚の生死にかかわらず、「生存ルートを選んだ」という体で物語が進む。

「すべてがハッピーエンドな世界」という展開上の一貫性を保つためには人魚も生存している必要があるという論に間違いはないが、それならばナギムナー村のイベント自体を世界崩壊後に持ってくるべきであり、物語上の矛盾を生じさせる必要はなかったと思う。さらに言えば私はこのナギムナー村の死亡ルートの方のイベントが非常に好きであり、ドラクエ7からわざわざひっぱってきた過去bgm「哀しみを胸に」が完璧にマッチし、最後、キナイが描いたロミアの絵と、ロミアに残された手紙を読まれ閉幕という展開があまりにも美しく余韻を残す綺麗なイベントで、ドラクエ11で最も秀逸なイベントだったと私は思うのに、それを塗り替えられるという点がちょっと感心しかねる。

時間改変による矛盾さえなければ、それでも「ありうべき世界」として許容できるレベルだと思うが、この矛盾があるためにどうしても納得しきれない。

 

 

 

 

2.過去BGMの多用

過去BGMを多用しており、実際のところ使う場所も悪くないためほとんど文句はない。最高の場面で最高のBGMが使われてめちゃくちゃ盛り上がるという正の効果があったのはまぎれもない事実だ、しかしいくつか疑問が残る選曲があった。

 

 

海図を広げて(海BGM)

いい曲だけどドラクエ9でも使ったじゃん、結構がっかり。

まさかオフラインタイトル2連続で海BGMが流用とは思わなかった。いい曲なんだけど。

過去作BGM使うにしても俺は7の、「エーゲ海に船出して」を使って欲しかった。

 

敢然と立ち向かう(格好いいイベントのBGM)

これに関してはこのBGMも、使いどころも何も悪いところはなかった。

特に最初、冥府で主人公とロウが合体技グランドネビュラを放ち、安全かと思った冥府にすら伸びる魔王の手から逃れるシーン、あれはめちゃくちゃ痺れたし、最高の展開に最高のBGMがついてきてテンションが最高だった。

ドラクエ6を語るときに絶対外せないムドー戦のBGMだからかなり印象に残ってる上に、それを合体技を初めて披露するという最高のシーンで使うことには一つも文句はない、完璧なタイミングでの完璧な選曲だっただろう。

ただ、このBGMを「使いすぎ」。この後ケトス復活から魔王を倒すまで、最高の展開は全部敢然と立ち向かうが流れてきて、いくらなんでも食傷気味、最後は笑えてきた。

もうちょっと使いどころを少なくしてくれた方が絶対よかった(新曲つかってほしかった)。安売りで価値をロストするタイプの残念なbgm。

 

(追記)この曲名はムドーとの戦闘BGMである「敢然と立ち向かう」じゃなくてムドー城へ乗り込むときのドラゴンに乗るBGMだから「ムドーの城へ向かう」が正しいBGM名です。訂正します。

 

 

勇者の挑戦(裏ボス戦闘BGM)

 

ここまでの展開から、裏ボスのBGMは大体予想できたが、ゾーマ戦のBGM適当に使えば客が満足すると思ってるんじゃねーぞ(満足した)。

ポッと出のニズゼルファとかいう気持ち悪いボスに使われるbgmではなくないかと思ったけど、まあこんなもんか。ゾーマのセリフをオマージュしたところは正直寒かったが裏ボス自体はふさわしい強さだったし、このBGMを使う「格」はあったとしよう

(新曲使ってほしかった)。

 

 

 

3.最高シーン

いろいろ文句はあるが、最高な展開に最高なbgmがひっついてくることで計り知れないほどの最高シーンになってる箇所がいくつもあった。ランキングにする。

 

1.裏ウルノーガを倒した後の出立の場面

 

魔導師ウルノーガを倒して、デルガダール王に「勇者」と認められ王国を旅立つ場面、

ルーラを使おうと思うと不思議な力でかき消され、npcに「馬に乗っていけ」と言われる始末。

意味不明な不便さに文句はあるもののしぶしぶ城門を出ると、突然流れるムービー、最高のイントロからの「冒険の旅」。完全に予想してないところから最高がやってきて、震えた。

なんでここで「ムービーとともに出立」なのかを考えたが、結局これは「表世界では実現しえなかった「勇者」として王国を旅立つ」という王道の展開をここでやっと実現できるという意味で非常に重要な、そして「ハッピーエンドの王道中の王道」、「伽話に語り継がれる」という展開を象徴するからこそだと気付いた。

表ではデルガダール王はすでにウルノーガに乗っ取られており、「悪魔の子」として追われる身になるという展開になるから、勇者として祝福されて旅に出るというのは最初のイシの村を出る瞬間だけしかなく、「王に認められる」というのは世界崩壊後の最後の砦の展開を待つしかない。

「なしえなかったイベント」を回収するというところに強い意味を持たせる必要があるならば、ここでムービーが流れるのは当然で、最もプレイヤーに感動を与えやすいのは間違いなく「冒険の旅」だろう。このBGMの選曲には必然性があり、しかも感動をうむという点で隙がない、最高。

裏シナリオが裏シナリオである一貫性を保ち続けられたのは間違いなくこのムービーとbgm選択が正しかったからだ。

 

 

2.グランドネビュラ発動のシーン

 

修行で新技を習得するという王道展開に、別れた仲間との再開がついてきて、最後の最後に合体技で危機を脱する、文句は何一つない。最高。ここで盛り上がらないやついないだろってくらいに盛り上がるシーン。

BGMの所でも触れたがここで「敢然と立ち向かう」(正確には「ムドーの城へ向かう」)が使われているのも最高。

ロウとの一騎打ちが作業感あってテンション非常に下がっていたものの、このシーンだけで持ち直した。敢然と立ち向かうを使うシーンがここだけ、もしくは後1つ程度ならば最高ランキング1位は間違いなかっただろう。

 

3.ケトス覚醒

 

過去作bgm使いすぎにしてはケトスのbgmが新bgmで「おおぞらをとぶ」が流れなかったところにかなり違和感を覚えたが、裏でケトス覚醒シーンでついに「おおぞらをとぶ」が流れたところ、特にベロニカが笛を吹き、セーニャが竪琴を奏でるという点で、「ベロニカがパーティに生存している」という条件を満たしているという状況下で覚醒によってbgmが切り替わるというのはこれも裏シナリオでなければならないシーンだと思う。最高。

だが結局「おおぞらをとぶ」というbgm自体がめちゃくちゃにいいbgmで単純にbgmの評価に引きずられていると感じたために3位。

 

 

4.まとめ

ドラクエ11、他にもまだまだ語れる(キャラの魅力)が、とにかく「最高」のRPGだった。

正直今年2017年のゲームはゼルダの伝説が圧倒的な1位で他のどんなゲームもそれについてくることはないくらいに思っていたが、そんなことはない、ドラクエ11も最高のゲームだった。ゼルダと甲乙つけがたい。いや最高すぎ。

ゼルダとかドラクエとかの「超大作」レベルのゲームは周りからの期待が尋常じゃないくらいに高いのにそれを超えてくるのがすごい。名前負けしないゲームとしての凄みを感じた。

 

(追記)

私はかつてドラクエ7の好きな点を「語りすぎないところ」だと評した。時間遡行を行う引き際を見極め、あくまでも歴史の傍観者として石板世界を旅するというそのプロセスは非常に素晴らしく、またエンディングで3人から始まった物語を3人で〆るという美しい終わらせ方にストーリーテリングの妙を感じ取ったからだ。

ドラクエ11の素晴らしさは、表ストーリーの王道の世界をきちんと終わらせた上で、あるかもしれない世界としてもう一つの世界を提示した点だ。これは「語るべきもの」を語った上でのストーリーの踏み込み、過去を捻じ曲げ、理想の世界を実現しに行くというプロセスがよくできていた。

エンディングにおいてドラクエ3の世界へのつながりを示唆するシーン、勇者の目覚めのシーンが流れるが、そこにおいて勇者の母が読む「お伽話」としてドラクエ11の裏世界の話が語られていることがこのエンディングを最高なものにしているといえるだろう。

すべてがうまくいった、よく言えばハッピーエンド、しかしながらすべてのイベントが軽い、陳腐な裏の世界は「お伽話で語られる」お話なのだ。その裏には仲間の犠牲、世界の崩壊を経てなお世界を救った表のエンディングが隠れている。

「お伽話のような」展開を作ってると自覚した上で、物語を描ききり、最後にそのお伽話を過去のドラクエと接続させるという手法は非常に美しい。

シナリオライターが最後まで自分が作る物語に一貫性を保ち続けたからこそ、だからこそ、「お伽話」の本という最後のモチーフが強い説得力を持ち、違和感なく過去作との接続に成功している。脱帽と言わざるをえない。ドラクエ11の静かながらも、最高の余韻は徹底した一貫性によって保たれているのだ。