【ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド 感想】ハイラル城という「ブレスオブザワイルド」
0.はじめに
ブレスオブザワイルド、今更このゲームの面白さを語るのは無粋だろう。2017年に出たSwitchのロンチタイトルは、これまでのゼルダという枠組みを壊し、ゲームの歴史を覆す、素晴らしいゲームだ。
発売から一年以上経過して、DLCも終わり、おそらくこのゲーム本編に関わるコンテンツも完全に出尽くしたいまになって面白さに関して何を語ることがあろうか。
広大なフィールドデザイン、世界とのインタラクション、これまでのゼルダにはないストーリーテリングの魅力、何を取っても朝まで語り尽くせる話の用意はあるが、
今回はブレズオブザワイルドのなかで最も異質で、しかしながら最もこのゲームを体現した存在である「ハイラル城」という存在について語りたい。
1.終着点としてのハイラル城
ゼルダの伝説、その多くの作品においてハイラル城は特別な存在であるが、特にブレスオブザワイルドにおいてそのシンボリックな意味は非常に強められ、ただの最終目的ではないではないこのゲームを特徴づける存在そのものになっている。
回生の祠から外に出たリンクが初めて見る景色、記憶を失い目覚めたばかりのリンクの
眼前に広がる広大な景色、裏で流れるメインテーマ、現れるタイトルロゴ、あまりにも素晴らしいストーリーの導入部分だが、まさにそこにあるのがガノンに瘴気に飲まれたハイラル城、ストーリーの終着点そのものだ。
閉鎖空間の回生の祠から一気に外に飛び出した開放感が、
ただでさえ広いブレスオブザワイルドのの世界を無限に広がる大地であると錯覚させるとともに、このゲームの終着点であるハイラル城をプレイヤーに印象付ける。
「広いだけではなく、わかりやすい」という相反する矛盾を超えることを指向した、
オープンワールドゲームがハマリがちな呪縛をいかに回避するのかを常に考えられた
このゲームデザインは褒める言葉が思いつかない。
「最後にハイラル城に来ればこのゲームはクリアできる」ということを開始3分でプレイヤーは理解できる。
さらにブレスオブザワイルドのストーリーは極めてわかりやすい。
100年前の弔合戦、乗っ取られた4神獣を取り戻し(ここですら任意だが)
ガノンを倒す、それだけだ。プレイヤーはどういう過程を経てもよい、何をしてもよい自由を与えられる。
しかし、どういう経路を経てもプレイヤーが最後に到達する場所、それこそがハイラル城だ。
2.ブレスオブザワイルドにおける「ダンジョン」
ブレスオブザワイルドは、リンクが「崖つかみ」によって「どこにでもなんでもできる」抜群の自由度を生み出したが、代わりに犠牲になったものがある、
それは「ダンジョン」だ。
ブレスオブザワイルド以前のゼルダ(さらに言えば時のオカリナ以降の謎解きメインの3Dゼルダ)の特徴と言われて、真っ先に上がるはダンジョンだろう。
これまでのゼルダは「ダンジョン攻略」に主眼が置かれていた。
多くの部屋、謎解き、道中で手に入る新しい武器による道が開けるあの瞬間の楽しさ、あれこそがゼルダだったと言っても過言ではない。
このダンジョン、どこにでもいける自由度の高さや崖つかみと極めて相性が悪い。閉じられた部屋、練られた攻略ルートを通らないとクリアできないという謎解きそのもの、「新しい武器」によるルート打開、すべてがブレスオブザワイルドと相反するものだ。
推測に過ぎないが、ブレスオブザワイルドにおいてどうやって「ダンジョン」を扱うのかは開発チームの中でも議論が紛糾したところではないかと考える。
最終的な解決策が、「謎解きの単位をより細かくした祠」、「これまでのダンジョンの雰囲気を残した中規模な神獣」そして「ハイラル城」という3つに謎解きの役割を分担させるというものであった。
祠は、これまでのゼルダのダンジョンの小部屋一つ程度の単位を完全に一つ独立した小規模ダンジョンとすることで、
「広大な世界中に散らばる祠そのものの場所を探すこと」+「祠内部の小規模謎解き」
という二つの要素の組み合わせによって、「ゼルダらしさ」を継承しようとしたと言える。
特に「祠の場所を探す」こと自体によってかつてのゼルダのダンジョンの機能を代替させようとする試みは非常に面白いし、ブレスオブザワイルドの箱庭そのものを一つのダンジョンと見なして、1つのゲームとしてダンジョンを楽しめるようにしたのはプレイヤーの想像を超えてくる「ゼルダらしさ」への回答だと言えるだろう。
神獣は「ガノンの支配下にある神獣を取り戻す」というこのゲームの中目標を作り上げるために生み出されたギミックだ。
ゲームとして馬鹿広いフィールドと散らばった祠だけでダンジョンを代替することで発生する、「目標が散逸してプレイヤーのモチベーションを保つことが困難になる」
という小規模ステージの問題点への回答だ。
それに加えて、神獣にひもづく4英雄の物語も非常に出来がよい。これまでもダンジョンの背景に街に住む重要キャラクターが関わることはよくあったが今回は「すでに亡くなっている100年前の英傑たち」と「百年後の世界を生きる今のハイラルの人」という2つの軸で描こうとする姿勢が特に素晴らしかったと思う。
回生の祠で百年の眠りから覚めた「記憶をなくしたリンク」が、まったく情報のないプレイヤーと同じ立場で一つ一つ記憶を取り戻していくというデザインは、
「過去がある」が「喋らない主人公」という特殊なリンクというキャラをうまく調理し、リンクとプレイヤーの一体感をうまく生み出していた。
さらに言えば、記憶を取り戻す過程で明らかになる、4英傑(+ゼルダ)それぞれの描き方は素晴らしかったし、魔獣ガノン戦の最初に神獣と英傑たちが手助けをするというシーンの感動はこれまでのゼルダになかった「ストーリーとしてのアツさ」を強く前面に押し出すものだったと言えよう。
英傑たちの詩(DLC)のラストシーンも、100年前のもう取り返しのつかない、彼らはすでにガノンの手で殺されてしまっているだという要素をプレイヤーが知ってるからこそ、非常に明るいシーンなのに物悲しさを感じさせるし、それが「ウツシエ」によって現在に残っているという描き方は、ストーリーの組み方として極めて優れていた。
祠も神獣もかつてのゼルダのダンジョンというものをどう取り込もうかという考えのもとで、よくできたシステムであることは間違いない。
しかしながら、これらとは一線を画す、「ブレスオブザワイルドのダンジョン」を魅せてきた、それこそがラストダンジョンである「ハイラル城」だ。
3.ハイラル城という「ブレスオブザワイルド」
ハイラル城はブレスオブザワイルドのダンジョンの中でもっとも作り込まれ、そして「ゼルダらしさ」と「ブレスオブザワイルドらしさ」を完璧に複合させた唯一無二のダンジョンだ。
祠や神獣は、「閉じられた空間」「ある程度決められたルート」による謎解きという点で、これまでのゼルダのダンジョン要素を今作に落とし込もうとして作られたものだと言える。
しかし翻ってハイラル城は違う、「何をしてもいい」、「どう攻略してもよい」高い自由度の中で組まれている。
ハイラル城は「何をしても自由だ」。
正面の門をマグネキャッチでこじ開け、ガーディアンの群れを強行突破し、ライネルを倒し、ガノン控える本丸まで正面突破してもよい、さらには廃坑を経由した裏ルートを通ってもよい、裏口にある港から場内にこっそり忍び込むのもよい、なんならバグ技で浮かせたトロッコで本丸まで空から到達してもよい、何をするのも自由だ。
祠や神獣では謎解きを成立させるためにリンクが壁に登れなくなっている、自由度の高さが謎解きとどうしても両立せず、ここを制限しないとゲームにならなかったことは重々理解できる。
しかしながらハイラル城では壁に登れる。何をしてもよいのだ。
途中の部屋から往時のハイラル城の栄えていた姿を見てもよいし、ハイラル王の葛藤が見られる手記を読んでもよい、記憶を取り戻すためのゼルダの研究室を覗いてもよい、地下牢獄にあるスカルヒノックスを倒してハイリアの盾を手に入れてもよい。
強烈な自由度、ブレスオブザワイルドそのものを、「ダンジョン」に落とし込んだ唯一無二の施設、それこそがハイラル城だ。
このゲームのラストダンジョンはこのハイラル城でなければならなかった。「自由度」と「ゼルダのダンジョン」というこの矛盾を最後の最後で乗り越え、回答をプレイヤーに提示してくる任天堂の天才っぷりは妬ましさを超えて、素直に脱帽するしかない、負けを認めるしかない。
誰がこのハイラル城を「ダンジョンではない」と呼べるだろうか、「ハイラル城にはゼルダらしさがない」と言える人はいるだろうか。
最後まで高い自由度でありながら、突如ラスダンだけが自由度奪われ、
ルートが決まった「ハイラル城」であったらこのゲームは成り立たない。
「ゼルダの当たり前を見直す」というブレスオブザワイルドの根幹をなすメッセージをもっとも強く表し、「これこそがゼルダなのだ」というその任天堂からの回答は全てハイラル城に詰まっている。
4.最後に
3Dゼルダは「時のオカリナ」という傑作中の傑作の影に常に怯えていた。
何をどう作っても時のオカリナと比較され、「大規模ダンジョン」、「謎解き」、「ダンジョン内で入手する新武器」といった要素は常に時のオカリナから一貫してゼルダらしさとして残り続けてきたし。
ブレスオブザワイルドは「ゼルダの当たり前を見直す」ことにより、これまでのゼルダらしさだと我々プレイヤーが思っていた大前提すらも叩きこわし、時のオカリナを超える宇宙一の大傑作となったと私は思う。
次のゼルダがこのブレスオブザワイルドすらをも超えて、面白さのあまり死ぬほどの出来になることを強く、強く期待している。