imterlawの日記

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リングフィットアドベンチャーは「ゲーム」なのか?【リングフィットアドベンチャー:レビュー】

コロナになって一年、家に篭ることが多くなったが故に

それでも始められる趣味が欲しいと思っていくつかの物にチャレンジした。

今日から連続したブログで、 新しく始めた「趣味」について語っていきたい。

 

1.リングフィットアドベンチャー

www.nintendo.co.jp

昨年の5月に開始し、1年間続いてる。

今更説明するまでもないだろうが、運動しながらゲームが進んで、

やれば健康になっていいよね、というブツだ。

 

昨年の俺は、このリングフィットをゲームじゃないと思ってプレイしてた。

 

 

今の俺はこれに対して真っ向から反駁し、「リングフィットはゲームだ」と考えている。

 

そもそも「ゲーム」とはなんなのか。そしてリングフィットは何がダメなのかという昨年の自分のポジションを明確にしたのちに、

最終的にリングフィットは「ゲームだ」という今時点での結論に至るまでの

思考の過程を書いておきたい。

 

リングフィットを行う「目的」

 俺がリングフィットを気に食わなかった理由、

それは最適化を追い求めるゲームプレイヤー心理と、運動して体に良いことをしなければならないというこのゲームをやるためのモチベーションが矛盾しているからだ。

 

 

クリアに最適化するならば、腰をふるだけのバンザイコシフリや、腕をぶらぶらするだけのスワイショウというような運動負荷が低い技を連発すればいいのだが、それだけでリングフィットの運動をこなしてる人間は稀だろう。

多かれ少なかれプレイヤーはスクワットやプランクのような「運動した気分になる」技を組み合わせて打つはずだ。

 

任天堂も馬鹿ではないので運動負荷が高いような技は威力が高くなっている傾向にあるが、このゲームのスキルツリーがバランス崩壊しており、適当にやってても「運動負荷の高い単体攻撃であるプランク1」よりも圧倒的に打点の高い「全体攻撃で楽なスワイショウ2」が早めに手に入り、その時点で全てが崩壊する。

健康になるため、プレイヤーに最適解でないスキルを選ばされるというのがゲームバランスとしてあまりにも出来が悪く、ゲームの体をなしてないと考えた。

 

極端な話、リングコンのセンサーを騙して運動した「フリ」をしてゲームを進めていくのがゲームプレイヤーとしては最適解になるのだが、それをやっている人間はほぼいないだろう。

 

RTAのany%的なルールでセンサを騙すのも自由、というルールがあるが、こうなることでようやく「ゲーム的」だと胸を張って言えると当時の俺は考えた。

 

その一方でRTAプレイヤーの中でもセンサを騙すということに対して疑念があるのも面白い。

自分の身体の動きを動画で撮ることで「真っ当なプレイである」ことを証明しなければならないというレギュレーションが存在するのだ。

 

プレイヤー間の共通認知として、「ゲーム内の最適行動」ではなく「ゲーム外での目的(=健康)も含めた最適行動」をしなければならないという認識があるのだろうか。

 

ゲームに閉じた「最適化」だけがゲームなのか?

 

昨年の俺はここで論を止め、リングフィットはゲームではないと結論づけた上でリングフィットの継続的なプレイを進めていた(健康になりたかったので、ゲームとして終わってることを許容した)が、改めて考えると、自分のゲームに対する考えがかなりラディカルではないだろうか。

 

「現世利益と一切関係なくただ純粋にゲームを楽しむ行為」というものをゲームだと捉えていたのだが、それだけがゲームではないのは火を見るより明らかだろう。

 

他人と交流するためにやる緩いボードゲームを例に出してもいいし、「ゲーム外の金」を目指して最適行動をするパチンコを例にしてもいいだろう。

 

とはいえなるべくならばゲーム的な最適解とゲーム外で求める最適解が一致してて欲しいという思いは確かにある。

ゲーム外での名声や賞金というものを目指して対戦ゲームをやることはあるだろうが、そのために必要なのは概ねゲーム内での最適化だ。この関係性は美しい。

 

数字が増える喜び

 

リングフィットは確かにゲームとして美しくない。プレイヤーにある種の縛りプレイを強要することでようやくこのゲームが目指している「健康」というゴールに到達することができる。

だが、リングフィットは全てを削ぎ落としたその根幹は「ゲーム」そのものだと感じた。それは数字の蓄積だ。

 

このゲームはこれまでやった運動の記録を全て集計し、自分が今どれだけ運動したかを提示する。 プレイによる継続的な数字の上昇はあまりにもゲームそのものだろう。

RPGにおけるレベル、対戦ゲームにおけるレート、シューテイングにおけるキル/デス

全てのゲームは何かしらの数字を継続的に蓄積し、それが徐々に上がることに幸福を感じる。

クッキークリッカーがゲームそのものだ、という古臭い論考を引っ張り出すまでもなく

数字が増える事は気持ちがいい。

 

筋トレの回数を単純に自動集計し、後から眺めることができる、というその原始的な数字上昇こそがリングフィットがどこまで行ってもゲームである証左ではないか、というのが2021年時点での私の考えだ。

 

数字が増える、というのが「自分の運動が遅行的にだが確実に反映される」という筋トレの性質と極めて相性が良いのも特筆すべきことだろう。

筋トレはあるラインまではやれば確実に効果が出るものの、

①効果が出るまでに必要な運動量が分かりにくい

②効果が現れるのが数ヶ月後

という意味でプレイからのフィードバックを得難い。

 

ここを補うのがリングフィットの数字蓄積となっているのが構造的に美しい。

スクワットの効果が見えなくても、確かにリングフィット上でのスクワット回数の蓄積は増え、そして「ゲーム」としてのステージが先に進んでいく。ゲームを進めていく間に本当の筋トレの効果、が見えてくるのだ。

 

ゴールが明示的でないという「筋トレ」のゲームとしての不具合を補うための補助輪として明らかにリングフィットは機能している。

これは「中間ゴール」をプレイヤーに提示することでゲームの継続的なプレイを誘引する、というゲームの御作法があるが故の利点だろう。

あまりにもゲームだ。リングフィットがゲームであることにもはや異論はないだろう。

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スクワットを5000回やってきた、(ワイドスクワット含めたら7000回)というのは確かな自信でもあり、この数字の積み重ねが面白さだと言われたら反論する術を持ち得ない



まとめ

リングフィットのゲーム性はお粗末だが、数字が増える楽しみはあまりにもゲーム。

筋トレというゲームの中間ゴールのなさという欠点を、ゲーム性のオブラートで包むことで解決した、という意味だと完璧な作品だ。

 

次回作があるとしたら、もう少しスキルのレベルバランスを重視して欲しいが、それを求めてるのは気持ち悪いオタクだけなので無視する、という任天堂の明確な意思があるならばそれはそれで一貫性があっていい。