imterlawの日記

郊外にぽつんと立った豪華な屋敷

シン・ゴジラ 虚構に寄り添う現実【ネタバレ】

シン・ゴジラをみた。素晴らしい娯楽映画だった。

私自身これまでのゴジラ作品を見たことはなかったがそれでも楽しめた。

「誰にでも楽しめる」、万人ウケする映画だったと思う。

 

 

  • 「虚構」vs「現実」からの虚実の入り混じり

この映画は、突如東京湾ゴジラが現れるところから始まる。

突如現れる「巨大不明生物」、「想定外」に対して日本の政府、官僚機構が対応に回る姿をとても「リアリスティック」に、いや「リアルに見えるように」克明に描いている。

お役所の文章、会議主義のある種「滑稽さ」を感じさせるような姿を描くことで、

ゴジラが迫り、街が破壊されるというシリアスなシーンなのにとてもコミカルな印象を強く受けた。

 

この映画におけるゴジラは虚構であり、理由なく訪れる災害だ。

もちろんゴジラは放射性廃棄物影響を受けて異常進化した古代の生き残りという設定からして「原子力に対する警鐘」というメッセージ性を強く孕んだ存在だが、この映画の中ではそういう設定「人類に対する警鐘」みたいなものをことさらに強調することはない。

むしろ理由なく訪れる「災害」という側面が非常に強い。

この作品のゴジラは禍々しい、「恐怖」の対象として描かれる。ゴジラそのもののキャラクターが恐ろしく作ってあり、一切の慈悲なく街を、日常をぶち壊す、そんな存在として描かれる。ただ理由なく移動するだけで凄まじい人的物的被害を生み出す、「対話」や「交流」のようなものを一切に拒否した、「恐怖」そのものだ。

 

シン・ゴジラは現れた災害に対して人類はどのように対処するのかということを「現実」側から描いた作品だろう。ゴジラという「災害に」にどのように対応するのか、自衛隊の出動根拠は、都民の避難をどうするのか、そういう現実感を常に描き続けている。

 

「現実」vs「虚構」というキャッチコピーは陳腐だが秀逸だ。現れた虚構に対してどこまで我々は、現実は対処できるのか、虚構を現実が倒せるのか、そんなストーリーになっている、中盤までは。

 

1度目のゴジラの襲撃に対して日本政府は常に後手に回る。「まさか生物ではないだろう」「まさか上陸はできないだろう」すべての楽観的期待を打砕きゴジラは街を襲う。

しかし突如ゴジラ進路を変え海に帰る。

このシーンでは自衛隊ゴジラを打つかどうかの判断で、「避難が遅れた人がいる」という点から射撃を中止する命令を首相が出すというのが印象的だった。

火器の使用をどう許可するのか、意思決定とその命令機構までを描くことでこの映画の「リアルさ」がどんどん高まってくる。

 

1度目の襲撃の後、ゴジラがいったん姿を消した後に人々が日常生活を送り出すのも面白い。電車が動き出し、学校が再開する。日常生活の強さ、否、日常を生きねばならない人々の姿が描かれる。

 

2度目のゴジラ襲撃とそれに対する自衛隊の防衛作戦以降がこの映画の「現実」vs「虚構」がくっきりと現れる。1度目の襲撃、幼体の状態では使わなかったゴジラのテーマをここで満を持して使うところが痺れた。

多摩川を最終防衛ラインとする自衛隊の作戦で、次々と使用する火気の規模を大きくしていくところがゴジラの強大さを物語る。機関銃から対戦車砲、地上部隊、ミサイル、自衛隊の総火力を持ってしてもゴジラに傷がつかない絶望。都内へとゴジラが突入してくる。

最終的に首相は在日米軍への協力を要請し、米軍のミサイルによって初めてゴジラが血を吹く。ここからが「虚構」、ゴジラの真骨頂だ。

痛みにもだえる、ゴジラはおもむろに背中を曲げ、溜めの状態に入ると口から熱線を吐き、背中からもビームを出し、都内は火の海と化す。ここのシーンにシン・ゴジラのカタルシスが爆発する。ゴジラが口を開けるシーンの禍々しさ、熱線の恐ろしさ、荘厳な音楽、映画一番(と言ってもいい)盛り上がりがこの中盤にある。このシーンでこの映画の「現実」vs「虚構」の軸そのものが破壊される。

 

エネルギーを放出した影響で東京駅周辺で一時停止したゴジラだが、復活の時が迫る。

多国籍軍による東京への核兵器投入へのタイムリミットが迫る中、血液凝固剤の投与によるゴジラ冷温停止、ヤシオリ作戦を試みる。ここで「虚構」にたいして始めて人類、日本人の反撃が始まる。

私はここで「現実が虚構になった」とは考えない。それは血液凝固剤の選定のプロセス、精製、注入にたいしては徹底して「現実っぽさ」を残しているからだ。どれも嘘ではない。あくまで人類側は常に現実の立ち位置に立っている。

 

むしろ、これはゴジラという「虚構に寄り添った」現実ではないかと私は考える。

確かに核兵器は現実だ、自衛隊の兵器使用の文脈の延長線上にある。ゴジラという存在そのものの拒否、全てを無に帰す浄化の炎。

しかしヤシオリ作戦は違う。ゴジラの身体構造を解析し、ゴジラに効く血液凝固剤を選定し、それによってゴジラの停止を図ろうとする、ここで人類は始めて「ゴジラ側」の文脈に乗っているのだ。ゴジラの生体膜云々は明らかに科学的にはありえない話であり、虚構だろう。そこに対してこの作品はこれまで描いてきた現実の組織運用を用いて対処しようとする。虚構という武器を持った現実vs虚構(しかしこれは3.11 という現実)のように見受けられた。

 

シン・ゴジラは人間、日本人を鼓舞するような前向きなストーリーで終わっている。

もちろん最後の意味深なシーンからしてゴジラが完全に終わったとは思えない。そもそも東京駅に残ったゴジラの後処理も含め、作中で出てきたようにこの物語の後で人類はゴジラと共存することを迫られる。

しかし、シン・ゴジラの世界では少なくとも日本人はゴジラの処理に成功する。

「まだまだ日本人はできるんだ」そういう素朴な肯定感を持たせてくれるような、楽しめる娯楽映画だった。

 

  • 物語ること

ゴジラはいうまでもなく3.11を意識している。川から遡上するシーンは津波のオマージュで、倒壊した建物群を前に立ち尽くすシーンは震災後の建物の様子とダブる。

あの日から5年たった今、ついに3.11を物語に、娯楽映画にする時がきたのかと感動した。

シン・ゴジラは現実と虚構という二つの対立軸を物語の中で提供する一方でで、映画そのものを実際の3.11と対峙させている。「あったかもしれない3.11」、官僚や政治家たちの対応がより性急でよりうまくいっていたそんな世界を描いている。そういうものを描くことについての議論や意見は有るだろうが、それよりも娯楽映画にそれを込めることができるということの方に注目したい。これは元の作品からして「原子力」というテーマを内包していたゴジラだからこそ許容できるものなのかもしれないが。

 

現実と虚構という用意されたテーマも結局は映画という物語の上で展開されているだけだ。ゴジラも人類も舞台の上で動く人形に過ぎない。

虚構を突きつけられた我々が、面白がったり、なんらかの感情を抱いたならばそれは虚構の力、物語ることの意味なのだろう。

「救い」という大それたテーマを出しているわけでは決してないが、人々に元気を、希望を与えられるというこそが物語が作られる意味であり、我々が物語を求める理由なのだろう。