imterlawの日記

郊外にぽつんと立った豪華な屋敷

ゲームにおけるボスはなぜ私を不快にさせるのか その2

前回その1ではレベルデザインのおかしいボスによる過剰なストレスを例として

ゲームのボスのダメなところを示した。

今回はそれとは違う意味でプレイヤーを不快にさせるボスを取り上げる。

 

3.なぜかゲームが変わるボス

 

ボス戦と通常戦で戦闘方法そのものが変わるようなボス、というのはゲームの中でも幾らか存在する。例えばカービィシリーズで典型的なものとして「突如挿入されるシューティング面」がある。カービィシリーズはなぜかシューティングを執拗に押してくる。カブーラ、O2、ナイトメアなどなど、毎回毎回シューティングを入れてくる。

今まで吸い込みと吐き出しコピーの横スクロールアクションで、ボス戦もその延長線上にあったはずのカービィでなぜそれを止めたのか、教えて欲しい。02とかナイトメアに至ってはラスボスにもかかわらずだ。ゲームを締めくくる最難関のボスが今までのゲームと無関係ってどういうことなのか。シューティングがやりたくてカービィを買う人間なんているのか?(ごく少数存在しそう)。

 

ケーキバイキングで楽しくケーキを食べてたのに突然焼肉を食わされた気分といえばいいだろうか。

確かに焼肉はおいしいよ、それは認めるよ。でもなんでケーキ屋で焼肉を食べさせられるんだ。俺はケーキが食いたくて来てるの。焼肉食べたいなら焼肉屋に行くから、変なサービスしないでくれ、頼むよ。

シューティングゲームシューティングゲームでそれ独立でやらせればいいんじゃないの。よりによってゲームのラスボス、今まで磨き上げてきた腕をぶつけるという熱い展開で、せっかく磨いたテクニックがまったく通用しないのが本当に不快に感じる。

俺は今までこのゲームの文脈に沿ってアクションを磨いてきたわけよ。ラスボス戦でそれがまったく関係なくて、しかもラスボスだからそれなりに強い、それはきついよ。

 

(以下アンチャ4のネタバレあり)

今年やったゲームで同じことを感じたのがPS4のアンチャーテッド4だ。さすがはあのクラッシュバンディクーを生み出したnaughty dog制作だけあってめちゃくちゃ面白いTPSゲーム。「プレイする映画」というキャッチコピーがまさに秀逸で、本当に映画を見ているような、映画のキャラをそのまま動かしているようなストーリー演出、すべてにこだわりを感じて、とにかくワクワクするゲームだったわけなんですよね、このゲームは。

冒険家になって宝探しをする、これにわくわくしないやつはいるのか?

海賊が残した財宝を求めて世界を飛び回り地図なき(uncharted)探検をするってワクワクの3乗でしょ。同じ宝を求める悪いやつとの戦闘はごく普通のTPSで、適度にステルス要素を使って敵の頭数を減らせるのもあって楽しくプレイしてたわけよ、ラスボス戦までは。

このゲーム最後の最後までTPSだったのに、なのにだよ、最後の戦闘がタイミングよくコマンドを入力して剣同士のつばぜり合いをするという謎のゲームに移行するんだよ。勘弁してくれよ、ガン萎えだよ、しかも難しいんだよ。

このシビアなコマンド入力で何回も死んでこのゲームにたいして醒めてしまったのが本当に残念で仕方がない。最後の最後でバケツに満ちた冷水をぶっかけられた気分。今までのワクワクを返してほしい。

割とTPSを食わず嫌いしてたけど、このゲームをプレイしていく中で「TPS、割と面白いじゃん」と評価を改めて、ラスボスも撃ち殺してやろうかと思ってたのに、最後はコマンドゲーで完全に置いていけぼりを食らってしまったよね。

なんとかクリアしてエンディングを見れて、肝心のエンディングも良かったんだけど、このラスボス戦のせいで私のアンチャーテッド4に対する評価は割と下がってしまった。

 

実際真面目な話、途中でシューティング面が挟まるのはもういいよ、ゲームが単調化しないためのお遊びだと思うと納得もするよ。アクションRPGにもレースする場面とか馬に乗って戦うボスとかもよくあるもんね。

頼むからラスボスだけは、ラスボスだけはちゃんと今まで培ってきたそのゲームの技術で、その技術だけで戦わせてくれよ、お願いだよ。なんのために今までハードル超えてきたのよ、今まで倒してきたボスはなんだったんだよ。何度も死んで学んだじゃん、テクニックを。奇を衒った謎のラスボスなんていらないよ。別に難しくてもいい、ラスボスだもん、大歓迎だよ。

お願いだから、お願いだから突然ゲームを変えないで欲しい、今までの培ってきた技術、その極致を要求してくれ。そうじゃないボス、ラスボスってなんのために存在しているのか、教えて欲しい。

 

アンチャ4は面白いゲームなので是非プレイしてください(おわり)

 

 

つづく

ゲームにおけるボスはなぜ私を不快にさせるのか その1

1.はじめに 

 

言うまでもない話だが、アクションゲームであれ、RPGであれゲームの要所要所にはボス(中ボス)がいて、最後には倒すべき関門としてのラスボスが用意されていることが多い。

wikipediaを見るとシューティングやアクションでは80年代初頭、さらにTRPGではそのRPG等性質上生まれた時から「ボス」と呼べるような存在がいたらしい。ゲームにおけるボスはゲーム初期から存在していると言っていいだろう。

 

最近思ったのだが、私はこのゲームにおけるボス戦が嫌いなことが多い。最近やったゲームだとBloodborneのボスは大嫌いだ。なぜか、強いからに決まっている。

「ボスは強くて当たり前だろう、何を言ってるんだマヌケ?」と思うかもしれない。待ってほしい、そのボスの強さは本当に妥当なのか?

 

 

2.ボスのレベルデザイン

ボスが強いのは当たり前だ。そもそもボスというキャラをゲーム開発者がなぜ用意するかを考えればわかる。

同じような単調なシステムだと飽きるからだ。

プレイヤーを飽きさせない、越えるべきハードルを適度に配置して、それを超えさせる。小さなハードル(小目標)をクリアしていく中で最終的なゲームのラスボス(最終目標)に到達するようなシステムデザイン、聞く限りでは美しい。私がここで言いたいのはそのハードルの高さは妥当なのか?そもそもハードルを立てることに成功してるのか?お前らが作ったのはハードルではなく落とし穴じゃあないか?

 

Bloodborneを例に出そう。このゲームで最初に戦うボスは聖職者の獣という巨大な化け物だ(ガスコイン神父から進む手もあるが割愛)。こいつがおかしい。

Bloodborneのジャンルはアクションで、銃と剣を用いたスタイリッシュなアクションで敵を倒していくタイプのゲームである。

聖職者の獣と戦う以前、マップ攻略の段階で戦う雑魚はそれほど強くはない。もちろん油断すると体力が溶けて死ぬが、結局隙をついて剣をぶんぶん振ってれば死ぬし、なんなら逃げて安全地帯で回復すればいい。

聖職者の獣はそんなゴリ押しが通用する敵じゃない。でかい図体のおかげでそもそも剣の攻撃でひるまず、敵の一撃は重い。ここで初めてプレイヤーは「回避」のテクニックを覚えることを強要される。回復を含めたゴリ押しが利かないからだ。いやいや待ってくれよ、今までゴリ押しさせてくれたのにここでそのゴリ押しプレイを咎められるのかよ。

戦闘を楽にする要素として銃を敵の頭にロックオンして数発打つことで敵が怯み、内臓攻撃という特殊な攻撃を入れれるようになるという設計になっているが、それもおかしい。雑魚敵相手にそのプレイングを今まで一度も要求してないだろうが。突然そんな要素を入れてきて対応できると思ってるのか?

誰もそんなこと教えてくれなかっただろうが。

 

Bloodborneのボスの嫌いな点は道中の探索に必要なテクニックとボス戦で要求してくるテクニックが乖離しすぎていることだ。このタイプのゲームを「ハードル高すぎボス」と名付けよう。特に最初のハードルが高すぎる。

Bloodborneは全体でそういうデザインになっている。ある程度ゴリ押しの通る雑魚敵を倒しながら探索する道中フェーズと、ヒットアンドアウェイの精度を上げた回避と攻撃の緩急をつける戦い方を求められるボス戦フェーズ。

この二つで必要なスキルのレベルがまるで違う。

そのためにプレイヤーはなんどもボスで死んで行動パターンを覚え、ボスごとに違う攻撃の隙を見つけ出しボスを突破することを求められる。

この落差が激しければ激しいほど、プレイヤーは突如現れるボスの強さに狼狽え、何度も死ぬことでどんどんイライラが高まってくる。bloodborneはよく「死にゲー」と言われるがそのカラクリがそこにある。ボスでしか要求されないテクニックをその場その場で身につけていくことが必要なのだ。

「ボスを強くする」ということが悪だとは決して言わない。最初から越えるべきハードルが高すぎるのだ。

初心者に要求してくるレベルが猛烈に高い。そのためBloodborneは逆に後半になればなるほどボスが楽になってくるような感覚を抱く。何度も死ぬことは変わらないが、要求してくるテクニックに対して自分の持ってるスキルが一定量溜まっているために攻略の糸口を掴みやすい。このゲームデザインが序盤にいらぬフラストレーションをプレイヤーに感じさせていると感じる。

 

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要求テクニックとその時点でのプレイヤーのテクニックのイメージ図

 

 

 

ボスは段階的に強くなっていくべきで、その段階はできるだけ滑らかであるべきだと感じる。もちろんボスの中でも因縁の強敵やプレイヤーの印象に残るような強敵が突然挟み込まれる、滑らかさを破壊するのも良いアクセントだろう。

だがそれを「最初に配置する」意味がどこにあるのか。Bloodborneとおなじフロムからでたダークソウル3でもそれはまったく同じだ。最初のボスであるグンダ戦うに当たって、最低限回避と盾受けをある程度扱えるようになっておかないといけない。その前の雑魚は剣を数回振るだけで死ぬのにもかかわらずだ、盾なんて使ったことなかったぞ。

このゲームの難しさはずるい難しさだ。九九の計算ドリルをやらされた後に突然因数分解をやらせて殺してくる。カラクリが分かれば簡単だ。できるようになるまで因数分解との戦闘をなんどもこなせばいい、試行回数の暴力でその場で適応するのだ。それでボスを突破した時の喜びは高い、ああそうだろうとも。

その強さは本当に必要だったのか?

 

こういうタイプのゲームに対する例として何が適切か思い浮かばないが、例えば星のカービィとかはどうだろうか。吸い込みと吐き出しという基本テクニックでボスが倒せるようになっており、それは道中の雑魚の戦闘の延長線上にある。夢の泉以降の作品ならコピー能力を持ち込んでもいい。ウィスピーウッズという敵は最初のボスとしてよくできている。ボスの体躯がまず大きくカービィの攻撃が外れることはない。敵の攻撃はりんごを落としてくる攻撃で、このりんごを回避するなり吸い込み吐き出しで当てるなりすれば良い。りんごをスライディングで回避したり、ジャンプしながら小さな敵の体に攻撃を当てる必要なんてどこにもない。そんなテクニックはのちに身につければいいのだ。

 

 

断っておくが私はBloodborneが大好きだ。死ぬほど文句言いながらも聖職者の獣を倒し、ガスコイン神父を倒し、先に進み、このゲームにのめり込んだ。だけど最初のハードルの高さは不必要に高いと感じる。そのハードルがゲームの楽しさを損なっているとも。

 

 

 

2につづく

 その2

 

 

 

 

 

 

最近プレイしたゲーム

9月にクリアしたゲームを簡単にまとめておく。

 

 

gravitydaze(PS4)

 

フリプにきてたからやった。重力を自在にコントロールすることで町中を飛び回る爽快感は非常に良かった。「空に落ちる」というキャッチコピーもいい。箱庭ゲーとしての出来はかなりよく、個人的にはやって良かったゲーム。

 

しかしながら戦闘面では結局重力キック頼り、岩を投げる必殺技頼りで単調な面も目立ち、また操作に割り当てられたキーもイマイチで、タイムアタックで必須の移動法である重力スライドを打とうとしても回避が暴発しがちという致命的な欠点や、ボスを倒す「フェイタルムーブ」が必殺技と同じキー割り当てのため、これも暴発することがあった。

必殺技は一度打つとかなり硬直するため、フェイタルムーブを打てずに時間経過し、一定時間経つとボスが回復してやり直しを繰り返させられ、とにかくイライラがひどい。

このためボス戦やタイムアタックではゲームに対して罵声を浴びせまくった(自分の操作の甘さで倒されるのは良いが、ただの誤操作で死ぬのは納得いかない)。

この前配信された2の体験版では操作性の欠点がかなり解消されてたため期待できると思う。

 

なかなかいいゲームだった。

 

風ノ旅ビト(PS4)

 

フリプにきてたのでやった。3億点あげたい雰囲気ゲーだった。

移動、ジャンプ音が出るボタンこの3つしかないがそれがいい。名も知らぬ他のプレイヤーとボタン1つのみでコミュニケーションをとりながら目的地を目指すという仕組み、美しいフィールド、BGMがとにかくゲームへの没入感を高めてくれる素晴らしいゲームだった。

前情報なしでやるのが最高だと思うので、ぜひ何も調べずにプレイしてほしいと思った。

 

 

バイオハザードリベレーションズ(3DS)

 

評判がよく、中古でお手頃だったので買った。バイオはあまりプレイしたことがなかったがそれでも問題なくプレイできた。

3dsの割にグラフィックも頑張っており、ゾンビやマップのテクスチャの質感が良かった。

舞台は無人の豪華客船で、ゴーストシップとかした船内にはゾンビがうごめいている。ゾンビも水死体をモチーフとしているらしく、ただの腐敗死体ではなくぬめぬめしているようなそういう気持ち悪さをうまく表現できていた。船という閉塞感のある舞台の中で、どこからともなく現れるゾンビという構図は恐怖を煽るのにぴったりだと思う、序盤〜中盤は結構ビビりながらプレイしていた。

序盤で死んだあれが中盤でああなって出てくるのはマジでビビるし、超怖い。

ボスも結構強めに作られており、1番目のボスがチェーンソーを持った大型のゾンビなのだが、こいつと雑魚のゾンビが同時に押し寄せてくる形となっており非常に苦戦した。打てども打てども死なないタフさには気が滅入る。

 

ストーリーも割とよくできており、バイオを知らない私でも続きが気になるようなそういう構成になっていたと思う。エンディングも綺麗にまとまっていた。

買って良かったゲームだった。

最高に性格悪くて面白いゲーム Bloodborne レビュー  

はじめに

 

 

先日、「Bloodborne」をクリアした。Bloodborneは2015年にフロムソフトウェアから発売されたPS4用ゲームであり、同社開発のデモンズソウルやダークソウルという所謂「ソウルシリーズ」の系譜を踏むゲームである。

私は約4ヶ月前(2016年5月)に発売されたダークソウル3で初めてソウルシリーズをプレイし、遡る形で今回Bloodborneをプレイした。

「高難度ゲーム」のソウルシリーズの系譜を踏んでいる以上当然なのだが、このゲームの難易度は非常に高く、ボスも道中も本気でプレイヤーを殺しにかかってくる。 Bloodborneとソウルシリーズの違いとしてまず舞台設定の違いがあるだろう。ソウルシリーズは剣と魔法の中世ヨーロッパを舞台としたダークファンタジーなのに対し、Bloodborneは時代を進め近代に近い19世紀のイギリスを下地においたゴシックホラーの形式をとっている。そのため遠距離武器は弓矢から銃器に変わり(DLC武器に弓?はあるが)、近距離武器も変形ギミックを持ったより近代的な(といっても無骨に敵を叩き潰すハンマーに変形できる剣とかなのだが)武器になっている。 またソウルシリーズと操作のキー割り当ては同様にしつつもゲームスピードを上げることで、ソウルシリーズとは違う高速でスタイリッシュなバトルを実現している。

その理由は「盾の撤廃と引き換えに得た高性能な回避」と「リゲインシステム」にある。  ソウルシリーズでは敵の攻撃への対応に二つの方法があった。一つは盾受け、もう一つがローリング回避だ。どちらもスタミナを消費して敵の行動に対応するものだが、盾受けには「盾受けを崩すor防ぎきれない高火力の攻撃」、ローリング回避には「回避では防ぎきれない範囲攻撃と回避を狩るための敵のいやらしい連続攻撃」という二つの弱点があり、敵の攻撃をどういなしていくのかを場面ごと、敵の行動ごとに判断していくところにアクションとしての面白さがあった。  

 BloodBorneでは盾を廃止し(弱い盾がいくつかあるものの例外)すべての攻撃を回避で避けるというゲーム設定になっている。ここまでだとゲーム性を単純にしただけに思われるがそうではなく、回避の性能を大幅に上昇させ、大きく距離をとるローリング回避と小さく回避するステップ回避の二つを実装、またソウルシリーズの伝統である回避の重量感、もっさり感を取り払い俊敏な回避が出来るようにすることで敵の攻撃をいかに避けるかというゲーム性になっている。  

また戦闘システム面に華を添えるのがもう一つの重要なシステムである「リゲインシステム」だ。敵の攻撃を食らってしまってから実際に体力ゲージが減少するまでにタイムラグがあり、その間に敵に攻撃を加えることで失った体力を一部取り戻す(リゲインする)ことが出来る。もちろん回復アイテムによる回復も可能なため、敵から被弾した際には「回避を駆使してリスクを負って攻め続けることでリゲインにより体力を回復するのか」、「安全に回復アイテムを使うのか」の選択が迫られる。  

この二つのシステムにより盾を構えて適宜攻撃防御をするソウルシリーズとは違う、攻める、回避、また攻める、被弾しても攻めるという「攻め」のゲーム性を実現している。  ソウルシリーズとは異なる二つのシステムにより、「リスクリターンの管理がうまい。気持ち良い」ゲームになっているといえるだろう。

ソウルシリーズの盾受けはある意味で丸い、リスクが少なく、リターンもそれなりにある選択肢だ。その安定した盾という選択肢をなくすことで、引くことがむしろリスク、攻めろ攻めろのゲーム(もちろん攻めすぎてゴリ押ししようとするとすぐに死ぬので回避する)という戦闘の設計になっていると感じた。  重要なシステム面での違いはこれくらいにして、私はダークソウル3よりもBloodborneの方が気にいている。それはこのBloodborneの世界観の妙、設定の素晴らしさに支えられている面が多分にある。以下ではこのBloodborneがいかに素晴らしいゲームだったかを語るが、ネタバレが含まれている。

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シン・ゴジラ 虚構に寄り添う現実【ネタバレ】

シン・ゴジラをみた。素晴らしい娯楽映画だった。

私自身これまでのゴジラ作品を見たことはなかったがそれでも楽しめた。

「誰にでも楽しめる」、万人ウケする映画だったと思う。

 

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【レビュー】いけにえと雪のセツナ(PS4版)

 先日発売されたスクウェア・エニックス(以下スクエニ)の新作RPG

「いけにえと雪のセツナ」をクリアした。このゲームは「あの頃のRPGを取り戻す」を表題に、古き良きRPGを踏襲した形で新しいRPG作品を作ることを目的として、スクエニ内部で作られたスタジオであるtokyoRPGfactoryが制作を担当した。

 

ゲーム自身の紹介はここまでに、このゲームを一言で評価するならば、

「買ってよかった、非常に満足したが、人にお勧めするかどうかは迷う」ゲームだった。

 

ここではストーリーと戦闘などのシステム面の二つに分けて大きなネタバレを避けつつレビューを行う。ストーリーのネタバレを含む既プレイ者前提の記事は別に書くつもりである。

 

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ドラクエ7、「ひとは、誰かになれる」【ネタバレしまくり】

昨年クリアしたゲームのなかで最も面白かったのは、と聞かれたら

即答でウィッチャー3  と答えるが、じゃあ二番目に面白かったものはと聞かれたら

それもドラクエ7だと即答する。

 

ドラクエ7は非常に面白いゲームだった。3DSのリメイクをやったが今までやったドラクエの中でもダントツで一番だ。

世界に一つしかない島、グランエスタード島の漁師の息子として育った主人公は、網元の娘マリベル、王子キーファの悪友三人組といつも遊んでいる。彼らが島の人々が近づかない神殿を探索したりする中で発見した石版、その石版を台座にはめ込むとそこは見知らぬ場所で、グランエスタード島にはいないはずのモンスターが・・・・・・

 

ドラクエ7基本中の基本として、最初の戦いまでが異常に長い。これでも原作と比べて短くなったというから驚きだ。主人公が住むグランエスタード島にはモンスターがいないのだ。石版をはめて初めて訪れるウッドパルナで初めて戦闘になる。最初の島、ウッドパルナからしてこのゲームはひと味違う。

謎の場所に飛ばされ右も左もわからぬ主人公を助けてくれる女戦士マチルダ、彼女はどうやらお墓参りに来ているようで、お墓に粗末な草を捧げている。マリベルが理由を聞くとどうやらこの島は呪われて花が咲かないらしい。そこでマリベルグランエスタードから持ってきた花の種を渡してやる。

彼女に従って唯一の町ウッドパルナを訪れると、そこは荒れ果てた街だった。なぜか街に入ると消えるマチルダさんを訝しみながら、村の戦士ハンクの話を聞くと(その前にハンクの傷を治すイベントがあるが)、どうやらこの街はどうやらモンスターに支配されて村の女たちはすべて連れ去られたようだ。

主人公たちはハンクを助け、島を支配する魔物を討伐すべく、東にある塔に向かう。

塔の頂上で姿を見せたのはなんと異形と化したマチルダだった。マチルダは英雄パルナの妹。パルナはかつて村に魔物が襲った際、後から村人が助けるという手はずで一人魔物の元に攻め込むものの命を惜しんだ村人は誰も助けに行かず、命を落としたようだ。その後マチルダもパルナを追って魔物のところに向かい、そこで魔物に捕まって魔物たちの同胞へと姿を変えられたらしい。自分たちを助けてくれたマチルダを殺せない主人公、しかしこの島にかけられた呪い、村の女たちを救出するための鍵はマチルダ自身の命だった。戦闘になっても主人公たちに攻撃を仕掛けてこないマチルダに攻撃を渋っていると、ハンクが街のため、自ら汚れ役を買ってマチルダにとどめを刺す。

島から呪いが解け、空が晴れるものの心は晴れず後味の悪い幕切れ。マチルダの遺言に従い最初にスライムと戦闘した場所に戻るとそこにはグランエスタードへと戻る旅の扉が、そしてその近くにある最初にマチルダが墓参りをしていたお墓にはマリベルが渡した花の種が咲き、満開の花が咲いていたーーーー。

グランエスタードに戻ると「突然島が浮かび上がってきた」と大騒ぎに。主人公たちもぼろ船でその島に向かうと先ほどまでいたウッドパルナにそっくりな島があるではないか。島を探検する中でどうやら先ほどまでいたウッドパルナは過去のウッドパルナ、そして今浮かび上がった島は現代のウッドパルナのようだ。こうして主人公たちは石版を集め過去と現代を行き来する冒険の旅に突入する。

 

最初の島から人が死ぬ。ドラクエ7を象徴するスタートだろう。このゲーム、いつものドラクエのように魔物vs人の対立軸かと思いきや人間の汚さ、弱さのようなものを正面から描いてくる。昼ドラアイランド、グリンフレークが最も象徴的だろうか。胸糞イベントとして名高い(私は大好きだが)レブレサックもそうだ。過去と現代を行き来し、いろいろな島を訪れる中で主人公たちはいろいろな人と出会う。優しい人、汚い人、気高い人、卑屈な人。全く毛色の異なる島々を冒険するこのシステムは非常に面白い。過去と現代の二つの冒険で「あの島はあの後どうなったのだろうか」というRPGで村を救ったときによくある疑問に答えを出しているのもうれしい。タイムワープものに外れなしというが、その通りだ。時間を飛んで面白くならないわけがない。

 

私がドラクエ7を好きな理由として「語りすぎない」ことがある。最初の島ウッドパルナもそうだ。グランエスタードに戻るときにパルナの墓に花が咲いていることが描かれるもののイベントは挿入されない。ここでキーファが何か語り出したら興ざめだろう。

主人公が実はマールデドラゴーンの船長、シャークアイの息子であるということもにおわせるだけで明言せず、ハーメリアを救うトゥーラ弾きの老楽師がかつてユバールの村で出会ったジャンであることも仄めかすのみである。

ドラクエ7はとにかく仄めかしが巧い。レブレサックの神父が以前訪れたプロビナで出会い、主人公たちの代わりに死んだ神父だということも語らない。プレイヤーが「そうだったのか」と画面の向こうで納得するのみである。巧い、タイムリープものの引き際を心得ている。過去と現代を行き来する中で知ったすべての知識をぺらぺら語り出したらそれこそ物語が破綻していくといえばその通りだが、このゲームは語らない。

 

 

エンディングも素晴らしい。真の悪オルゴデミーラを倒した後、結局漁師の息子として生きていくことを選んだ主人公は、一人前の漁師と認められて初めて父の漁に連れて行ってもらう。その船にはマリベルも忍び込んでいて〜、というオープニングのイベントを踏襲したこの演出がまず憎い。その漁で網に引っかかっていたのは見慣れぬ石版で、そこにはかつてユバールの地を守るため(ライラに惚れただけともいうが)過去に残ったキーファからのメッセージが彫られていた。ドラクエ7はキーファから始まり、キーファに終わる、石版から始まった冒険が、最後石版によって幕を閉じるこの終わり方は非常にきれいだ。確かにキーファの離脱は痛かった。突然女に惚れて離脱して、結局ジャンからライラを奪う形になるし、キーファがユバールで消えるせいで次のダーマの難易度が上がるといいことなしだ。でもこのご都合エンディングのためなら、キーファの離脱も許そう。このエンディングのためにはキーファが途中で帰ってきてはいけない。キーファはエンディングの犠牲になったのだ。3人の悪友から始まる物語がちゃんと最後3人で完結する、素晴らしい。このシーンには残念ながらガボもアイラもメルビンも似合わない。わかってる、わかってる開発者だ。

 

「ひとは、誰かになれる」、PS版ドラクエの7のキャッチコピーだ(youtubeでCMが見れる)。このキャッチコピーも好きだ。なぜ私はゲームをやるのか、それは自分じゃない「誰か」になるためだ。ゲームの中、主人公の生き方にもこのキャッチコピーが生きる。いろいろな島を冒険する中で、いろいろな人「だれか」と出会い、グレーズ姫に惚れられたり、世界を救ったり、主人公はある意味で自分自身「平凡な漁師の息子」じゃない「誰か」になる。しかし、最後で主人公は再び「漁師の息子」として生きていく。よくある「幸せの青い鳥」系ストーリーと纏めてしまえばその通りだが、「誰か」になった自分自身が最後に戻ってくるのが最初の自分だという終わりもいい。でも最初の主人公と全く同じじゃない。主人公は旅の中で確かに成長し、「一人前だ」と父に認められるまでになった(マリベルにも認められる)。

「ひとは、誰かになれる。」「でもわたしはわたしなんだ」ドラクエ7はそう言っている気がしてならない。